本を読むという行為は

本を読むという行為は

たまに書評をあげていきます。

今回はたまたま近所の図書館で発見した、 藤原 和博さんの「本を読む人だけが手にするもの 」

めちゃくちゃ面白かったです。

ざっくり全体としては、成長社会から成熟社会に移り切った日本のなかで、これまで「みんな一緒の幸福」だったところから、多様性が広がり「それぞれオリジナルの幸福論」というものが生まれたことによって、より本で教養を身につけなければ幸せになるということが難しくなってきたよね、みたいなことが書かれていました。

この本のパンチライン

本を読むという行為は、決して情報を得たいというためにやることではなくて、むしろ自分のなかからどのくらい引き出せるかという営みなのです

個人的にはここが一番刺さりました。

この前、セレンディピティがうんたらというブログを書きましたが、まさにこういうことなんだろうなーと。

セレンディピティの過小評価

得たい情報がある場合、ネット検索や生成AIを使うのが手っ取り早いです。何よりも素早く答えに行き着く可能性が高いので。

ただし、本は違うと言っていて、必ずしも欲しい情報がありそれを得たいから本を読むのではなく、どれだけ自分に問うてみるのか。

つまり、ふとしたセレンディピティからのインプット情報により、自分ならどうだろう?自分はこう思う、思わない、自分と意見が一緒だ、違う、など、自分なりのオリジナルな考えを捻り出すために本を読むということかなと理解しました。

たしかに経験上そんな感覚はあります。

「他人の脳のかけら」を自分の脳につなげる

もうひとつ、この本に書いてあったなかで個人的に好きな一文です。

本を読むということは、その著者の人生を読むということであって、つまり他人の脳の考え方を一部自分の脳にも連結させることではないか?そうやって少しずつ脳のかけらを接続することによって、他者との世界観を共有することにつながる。これが本の面白さであるのではないか?という内容。

ぼくは歴史や伝記ものの本が割と好きですが、これはなぜかというと他の人の人生をめちゃくちゃ安価に覗けるからだなーと思います。

勿論教養にもなるし、なによりこんな面白いエンタメはないなと。

それをこの本では「脳のかけらの接続」と言語化されていて、スッキリしたのと共にまだまだ自分の言語化能力の低さにちょっぴり落ち込みました。

まとめ

なんとなーく自分がこんな感じだろうなーと抽象的に考えていたことを、ズバズバと明快に言語化されていました。

この全く同じことを考えてても、完璧なまでの言語化や語彙に安価に出会えるのが本の魅力だなあと思いました。